
11月7日の「台湾有事は2015年平和安全法制の存立危機事態になりうる」との趣旨の高市首相と岡田克也さんの質疑に端を発した混乱は、池袋の中国映画祭がプログラム変更になるなど波及してきましたが、保守党ナンバー2(非議員)のジャーナリスト・有本香さんとの口論へと炎上してきました。
今週の日曜討論(2025年12月21日)で次のようなやりとりがありました。
有本さんは「
筆者・宮崎信行だけが知る話。岡田さんは政権時代の2010年上海万博開会式に「外務大臣兼首相特使」として当時の鳩山由紀夫首相の親書を携えて出席しました。その後、下野後に、同じ場所を、岡田さんと本庄知史・政策担当秘書(元外相政務秘書官ん、現衆議院議員)の2人で訪れました。これについて私が「2010年の時と、中国の対応は違いましたか」と問うと「そりゃ、全然違うよ」外相当時との違いが歴然としているとしました。そのうえで外相としての訪問時は警護や時間の関係で行けなかった、北京の繁華街「王府井」の雑踏を歩くことができ、いずれ政権再交代した際に向けて英気を養った様子でした。一方、岡田さんは、本庄さんより事務所内秩序が上の公設第一秘書と2人で台湾を訪問時した際には、馬英九さんが直接会ってくれました。
この背景には、中華民国初代総統兼中国国民党初代主席の孫文さんを、岡田さんのお母さんのお母さんのお父さんである高田隆平さんがとめてあげたことがあるのが理由です。映画にもなっていますが、日本でも、ペナン島でも、日露戦争後のプチバブル時代に、革命を支援した日本人・華人は何人もいました。その中の一人が高田さんでした。このため、台湾の国民党政権では、手厚くもてなそうとし、中国でも、万博開会式のようなお祭りでは「井戸を掘った人を忘れない」との辛亥革命後の中国の正統政権としてのアピールをしようという意味あいもあります。また、岡田さんは生前一度も会っていませんが、二階、小渕、橋本各氏同様に「田中角栄の弟子」というアイデンティティもわずかながら持っています。
そして、衆議院議員総選挙スタートからちょうど100年後の1990年2月、四日市の岡田さんが新卒のころには全く意図していなかった衆議院議員になったのに際し、蔵にあった孫文さんのせめてものお礼の書を額縁に整えて、35年以上お守りとして議員会館に掲げています。2010年からの今の議員会館では、レクチャーに訪れた官僚は全員見たことがあるはずです。
孫文に勝る政治家が、現代にあらわれるはずもなく、地縁も血縁もない孫文の書は、お守りにすぎません。が、岡田さんもやや意固地になってしまい、有本さんに対して「国防総省の文書に、日中議連はスパイだとの文書はない」と匕首を突き付けることになりました。
岡田さんは、ジャーナリストに対して、「イオンと西松建設のあやしい関係」と書いた週刊朝日編集長を訴え勝訴。「Y・I」さんは朝日新聞社中途採用ながら破竹の勢いだったのが、この後、ラジオ番組のコメンテーターなどに活躍の場を移しました。これに先立ち、自民党政調会事務幹部だった田村重信さんが2つの著書で「岡田さんは通産省で大店法改正に従事した」との内容もデマだと裁判で認定されました。このように、たんにイオンと結び付けた与太記事とはいえ、対ジャーナリストでは訴訟に強いです。
ただし、岡田さんも少し、有本・百田ごときに意固地になり過ぎではないでしょうか。私は、20歳年少ですが、親を亡くすことについては、岡田さんより先輩です。グリーフケアでないですが、実の母を亡くしたことで、攻撃は最大の防御なりとのスイッチが入っていると感じます。岡田さんの政治の母、羽田孜さんは「みんなが羽田孜のように虚心になれば政治は良くなる。もう政局はやめにしよう」と退陣会見で語りました。本人に向かって直接言えないので、ここに書きますが「博愛 孫文」から「虚心 羽田孜」に36年ぶりに額をかえて、師匠の境地に近づいていただきたいと思います。
